ー 琉球箏曲の歴史 ー

琉球の音楽は、まずは歌ありき。

「唄三線(うたさんしん)」と言われるように、
琉球の音楽は三線を弾きながら歌うのが主体であって
箏はあくまでも伴奏の立場です。

従って琉球古典音楽の世界では、
箏は独立したソロの楽器として扱われることはほとんどなく
通常は三線のお伴として演奏されています。

弾き方も強過ぎず、出過ぎず。
常に唄、三線の邪魔をしないことが求められ、
そのために一般的にはあまり目立たない存在になってしまっていると言えそうです。

さて、そんな琉球の箏の歴史を簡単にひも解いてみましょう。

“三線”と同じように、箏も中国から琉球を経由して
大和の国へ伝わったと考えられています。

けれども当初、箏は三線のようには琉球の地に根付きませんでした。
一度通り過ぎてしまった箏が、再び琉球に戻り伝わったのは
18世紀初め頃のことと言われています。

この辺りの歴史には諸説あるようですが、
最も有力なのは薩摩藩士から琉球へ伝えられたという説。

京都に赴いた薩摩藩士が八橋検校の弟子に箏曲を学び、
さらにその薩摩藩士から学んだ琉球王朝の役人(稲嶺盛淳)が、
琉球に大和の国の箏曲を持ち帰り、伝えたということです。

「京都→薩摩→琉球」という流れ。三線とは逆の流れと言えますね。

このようにして琉球に伝わった箏曲は、琉球王朝の宮廷内において
専門の役人によって演奏されるようになりました。

一般の人々が箏に触れることができる様になったのは、
明治維新の後、琉球王朝が解体され「沖縄県」となってからのこと。
それまでは庶民にとっては手の届かない別世界のものだったのです。

そして王朝によって大切に守られてきた箏曲は、
古い時代の形をそのまま守り、受け継ぐことにつながりました。

おもしろいのは、本土では既に失われてしまった『大和の国の曲』も
琉球箏曲の楽曲として今に残り、
当時の形のまま、変わらずに演奏されているということ。

箏は日本の伝統楽器と言われるけれど、
その “もともとの姿” は本土ではなく、
琉球で脈々と受け継がれ、守られてきたのですね。
なんだかとても不思議な気がします。

     


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